自己紹介(長編)1

自己紹介(長編)にお越しいただきありがとうございます!


この長編の自己紹介は長いので3部に分けました♪

お時間のあるときに、ご一読いただけると

私がどんな人か分かっていただけるかな、と思います。


そんなに長いの~~?!

と思われる方、

PLOFILEにある私の自己紹介(短編)でも十分ですが

もっと楽しんでいただける?壮大なストーリーとなっておりますので

暇な時間にご一読ください。


それでは私の壮絶な(汗)ヒストリーをお楽しみください^^



<タイトル>

人の顔色をうかがってばかり、いつも孤独を感じ不安に押しつぶされそうだった私。

幾度となく危機的状況や、気分が底辺まで落ち込むことが起きても、這い上がってきた私の

考え方ができるまで



<目次>

1.誰か一緒にいて欲しいときはいつも家に1人、孤独を感じ愛情に飢えていた幼少期

2.怪我をしても怒られるかも、痛くても母に告げられず

3.友人とのコミュニケーションの取り方がわからず孤立、周りの顔色をうかがい始める

4.母からの愛情ほしさに学級委員へなくなく立候補し、落選

5.友人から突然の無視、偽のポジティブ思考発動

6.親友が突然不登校、困惑

7.気を遣って顔色をうかがっている人に苛立ちを覚える

8.また顔色をうかがう日々の再会




<本文>

1.誰か一緒にいて欲しいときはいつも家に1人、孤独を感じ愛情に飢えていた幼少期


まだ私が幼稚園に行く前の話です。

両親が家にいるときでした。

「今お父さんに近づいちゃダメ!お勉強してるでしょ!」

と、父親に近づくと怒られてしまったのです。

「なんで怒られるの?お父さんに遊んでもらおうと思っただけなのに・・・。」

なぜ怒られたかわからない私は、とりあえず怒られる行為を避けることから始めました。

(この記憶を母に話すと、当時父は再就職のための勉強をしていたようです。)


母親を怒らせるのは、父親に近づいたときだけではありません。

仕事をしない父に対して、いつもイライラしており、母に近づくことも怖く感じていました。

怒っているときの母はまくし立てる様に話し、また眉間のしわが怖さを増強します。

小さかったため、話していることはわからないけれど、母の表情を見れば一瞬で怒っていることを察していました。

その表情が怖くて泣いても、母の表情は変わりません。

泣いている私に怒りをぶつけることもありました。

このころから、気づいたら母の表情を読み取る事が癖付いていったのです。


その後両親は共働きになり、幼稚園入学後、私はよく祖母の職場に預けられていました。

家に帰っても両親はいません。


小学生になり、風邪を引いて40℃ほどの熱が出たときも、私は家にたった1人・・・。

心配してもらいたくて、2~3時間毎に計測した熱を紙に書き、「こんなに熱上がったのだよ!」と帰宅した母親に話したこともあります。

しかし母は特にリアクションもなく、忙しそうに夕飯の支度を始めました。

40℃も熱が上がったら、「大丈夫?今熱はない?よく頑張ったね!」などの反応を期待していた私は、母の反応にショックを受けました。しかし、忙しそうな母にこれ以上ごねると機嫌を悪くしてしまうと思った私は、思っていることと裏腹に「私は全然平気!元気!」と伝えました。


おたふく風邪の疑いがあり、学校から家へ帰らなければいけなくなったときもこんなことがありました。

母はなかなか迎えに来られず、担任教師が連絡。保健室で待っている私の耳に飛び込んできたのは「1人で帰らせられないか?」と電話口で聞いた母に対し「信じられない!」と憤る教師の声でした。

これって普通じゃないの・・・?

両親はすぐに迎えに来るものなの・・・?

もしかして私、愛されてない・・・?

私は今まで母の態度は普通だと思っていたのですが、先生の反応を見て初めて母からの愛情不足を自覚しました。

イライラしている母の様子が目に浮かんだので「1人で帰れます」と言いましたが、先生に「待っていなさい」と言われ待つしかありませんでした。

やっと母が迎えに来られて怒っていると思いきや、先生がいるのでよそ行きの顔・・・

怒られなかったなと安堵し、帰宅後母と一緒に過ごせると思いきや母はそのまま仕事に戻り、また家に1人。

「私ってやっぱり愛されていないのかな・・・?」


小さい頃の母親の記憶は、怒って眉間にしわを寄せている表情がほとんどです。

笑いかけてもらえた、褒められた経験もあるのかもしれませんが、怒っている時の表情が痛烈でほとんど覚えていません。



2.怪我をしても怒られるかも・・・、痛くても母に告げられず


ある日母の目を盗んで遊具で遊んでいたとき、足を滑らせた私は股に出血するほどの怪我を負ってしまいました。しかし、痛みをこらえて母には告げませんでした。

以前風邪を引いたときもそうでしたが、私を病院に連れて行くことで仕事を休まなくてはいけないことに対し、母はあまり良い顔をしなかったからです。

また、幼少期からアトピーでよく皮膚科に通っていたのですが、かきむしっている私をかわいそうな目で見つめる母の顔を見るのが辛くて、でも痒くて・・・これ以上母に心配かけることをしたくなかったからです。

幸い化膿する事もなく、ただただ痛みをこらえて自然治癒していきました。



3.友人とのコミュニケーションの取り方がわからず孤立、周りの顔色をうかがい始める


兄弟は兄1人で、遊び方は兄から教えてもらっていました。

髪を切りに行くのは、兄と一緒の床屋さんでショートカット。服は兄のお下がりもあり、外見は男の子に近かったです。そのため、性格もやや男っぽく成長し、学校で一緒に遊ぶのも男の子と遊ぶのがとても気楽でした。

女の子らしい子に憧れはあったのですが、どんな話をすれば良いのかわからず、自分から積極的に話しかける事はできませんでした。

ある日、砂場遊びでグループを組まなければいけなくなったとき。いつもの男の子グループに入ることができず、話せそうな近所の友達もいない。完全に出遅れました・・・。

唯一入れてもらえそうな人数で残っていたのは、ほぼ話したことのない女の子のグループしかないという状況でした。

勇気を出してグループ内に入れてもらい、かなり顔色をうかがって、気を遣っての繰り返し。このときから女性グループに所属する難しさを実感しました。

幼少期からの母の顔色をうかがう状態から、小学校のクラスというコミュニティー内で人の顔色をうかがうという状態に変化していったのです。



4.母からの愛情ほしさに学級委員へなくなく立候補し、落選


小学校3年生頃から毎年、新学期が来るのが嫌で嫌でたまりませんでした。その理由は学級委員長の立候補の時期が来てしまうからです。

母は毎回、立候補することを私に示唆してきました。立候補しなかったときは、露骨に落胆した表情を見せるのです。

落胆した母を見るのが辛くて、ある年勇気を出して立候補したことがあります。私よりも適任がおり、立候補してもどうせ落選することが目に見えていました。しかし、このまま立候補しなかったら、また母に落胆されてしまうと考えると立候補を取り消しにする勇気はありませんでした。

結局結果は落選。落選した悲しみより、これで母の落胆した顔を見なくて済むと思い、安堵の気持ちで涙がこぼれました。



5.友人から突然の無視、偽のポジティブ思考発動


学年が上がるにつれ、仲良くしていた男の子も素っ気なくなり孤立。

女の子の友人を見つけなければ!と幼稚園の頃から仲の良かった子のグループに入れてもらい、うまくやっていると思っていた矢先、無視(シカト)が始まりました。

特に何をしたか自分でも理由がわからないのですが、私とはもうしゃべらないと言われてしまいます。3人の友人の中で、一番仲の良いと思っていた子からも「私も無視されちゃうからこんなことしたくないけどごめんね」と言われる始末。

顔色をうかがって、気を遣っていたにもかかわらずなぜこんなことに・・・。またも孤立してしまいました。

この経験から、顔色をうかがっても報われないと言うことに気づき、「どうせ1人でいいや、なんとかなる!」と開き直ることにしました。本音は1人では寂しく、みんなと一緒に楽しく過ごしたいのです。しかし、自分を守るために、偽のポジティブ思考が始まりました。

本来持つ不安を覆い隠す様に、ポジティブ思考で恐れる気持ちに蓋をする様になったのです。



6.親友が突然不登校、困惑


友人からの無視がきっかけで発動した、偽のポジティブ思考。

今までは顔色をうかがってビクビクしていた自分が、なんとなくですが少し強くなれた気がしていました。その後、顔色をうかがうような友人達とつるむことはなくなり、新しい友人ができました。その子は本当に物腰柔らかで、気兼ねなく話せることができる唯一の友人でした。そのときの私は、彼女のことを一番の友達、親友だと感じていたと思います。

彼女とはその後の小学生生活ずっと一緒で本当に仲良くしていました。田舎で育った私達は中学校も同じで、このままずっと一緒だと思っていました。

しかし、人生はそんなにうまくいきませんでした。残念なことに、中学生に上がり別々のクラスになってしまったのです。やや不安でしたが「きっとなんとかなる!」と、ここでも偽のポジティブ思考を発動させ乗り切っていけると思っていました。

しかし、大丈夫と思っていたのも束の間・・・休み時間に彼女のクラスを訪れると彼女がいません。体調崩して休んでいるのかな?と思い、特に気にもとめていませんでした。しかし、次の日も、また次の日も学校には来ていません。さすがにおかしいと思い、彼女のクラスメイトに何があったのか訪ねましたが、クラスメイトもいまいち理由がわからず、気づいたら何週間も学校へ来ていませんでした。心配になって、先生に理由を訪ねたところ、登校を拒否していると知らされました。

なんで?何かいじめでもあったの?

彼女はとても賢く、確かにやっかむ人は万が一にもいたかもしれないけど、なんで?

今までそんなそぶりも見せなかったし、特に相談もされなかった。なんで?

なんで相談されなかったんだろう?私じゃ役不足だった?

親友だと思っていたのに・・・。

私じゃ何もできなかったのかな・・・。

先生から登校拒否の事実を聞かされてから、私の頭の中ではいろんな思考がぐるぐるかき乱されていました。

何度か彼女の家へ訪ねたことはありましたが、顔を見ることはできず、結局理由もわからず彼女の口から話しを聞くことはかないませんでした。

親友の支えになれなかった自分を責めました。

また自分は本当に彼女の親友だったのか?そう思っていたのは自分だけ?

相談する対象にもなっていなかったのかな?

いろんな自分の不甲斐なさ、またエゴが渦巻き私の心も廃れて行きました。考える事に疲れた私は、いつしか逃げるように彼女の事を考える事をやめ、蓋をしていました。



7.気を遣って顔色をうかがっている人に苛立ちを覚える


友人の事を考えるのに蓋をした私には、いつしか日常が戻っていました。彼女のことを考えても、考えなくても日常は日々過ぎていきます。ただ、私の中に残ったわだかまりは、私のコミュニケーションに影響を与えていました。

友人と深く関わることに不安を覚え、深く関わる場合は、自分を求めてくれているのか?頼りにされているか?で親交の深さを測っていました。頼ってもらえるように相手のことをよく観察し、友人が喜びそうなことを考え、友好な関係が気づけるように努力していました。常に笑顔を絶やさず、友人が笑ってくれるのであればオーバーリアクションをしたり、ちょっと悪ノリした発言をする事も苦にはなりませんでした。

友人と楽しく過ごすための努力をしていた私は、このとき顔色をうかがってビクビクしているだけの人を見ると、昔の自分を見ているようで苛立ちを覚えました。

ビクビクしているだけでは、ただ構ってくれる、気にかけてくれる人を待っているだけと同じ。本当に友人を作りたいと思っているのであれば、自分を知ってもらう、良いと思ってもらえる努力をしないと誰も振り向いてもらえないと思っていたからです。



8.また顔色をうかがう日々の再開


小学校・中学校は同じ学区内の顔ぶればかりであったため、気兼ねなく生活できていたのが、高校生活では一変しました。知らない顔ぶれが増え、またハキハキとした気が強めの同級生が多くいる学校でした。

少し強くなれた気がしていたのは中学まで。高校に進学してからはまた周囲の顔色をうかがう日々に逆戻り。高校進学初日には、あまりにも緊張しすぎて体調が悪くなり、今までほとんど利用したことのない保健室へ逃げ込んでいました。

気の知れた人以外と深く関わることを苦手としている私には、新たに関係を深めることにかなり難色を示してしまっていました。高校ではすでにできあがったグループの中になんとか入ることができ、身を潜めていたのです。その中にいる間は、小学生の頃と同じように顔色をうかがって、気を遣って・・・。結局深く関わることにおびえていた私は、つかず離れずの距離を保つことでその場をしのいでいました。休み時間などは、中学の頃からの友人とそのクラスの友人と一緒に過ごし、自分のクラスではいろんなグループの子と話せるけど、そこまで仲良くはないといった状態が高校卒業まで続きました。



自己紹介(長編)2へつづく



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